久保田論文 第三章
KUBOTA STUDY CHAPTER 3
第三章 Alan Turing
人間の代わりに考える機械というものを最初に発想して実現に取り組んだのは Alan Turing である。彼の数奇な一生を辿ってみよう。Turing は 1912 年にロンドンで生まれた。幼少の頃より天才的な少年であった。1931 年より1934年までCambridge UniversityのKing’s Collegeに在籍し、数学のBS、MA(学士、修士)の学位を取得し、1935年に fellowshipを授けられた。
1936年より 1938年迄米口のPrinceton大学の数学科に留学しPh.D.(博士号)を取得した。その間、暗号を研究した。Von Neumanより postdoctoral assistantとして彼の下で働くよう働きらきかけがあったが断って帰口した。
帰国した Turing は Government Code and Cypher School (GC&CS)に勤務してドイツ軍の使っていた ENIGMA という当時解読不能と云はれた暗号桟の解読に成功した。1942年にTuringはドイツの新しい Comet geheimschreiber (secret writer)を解読するために Turingery という技術を提案したが、これが programable digital electronic computer の開発につながったのである。
戦後1945年より1947年までTuring は National Physical Laboratory に勤務し、ACE(Automatic Computing Engine)を設計した。1946 年に詳細な設計を提出した。これを基として English Electric の DEUCE、Bendix のG-15等のcomputerが生まれた。CG&CSの活動については守秘義務が課せられていた上にイギリス政府は没収した ENIGMAを植民地政府との通信に利用したため戦後もENIGMAのことは厳秘にされていた。Turing の戦中の功績が認められることはなかった。
1948 年に Turing は、Victoria University of Manchester の数学科に移り、1949 年にComputer Laboratory の director に任命された。そこで Manchester Mark1を開発した。Ferranti 社の consultant として Ferranti Mark 1 の開発に参加した。
1950 年にComputing Machinery and Intelligence という論文を出して artificial intelligence を論じた。この中で computer が Intelligence を有しているかを判定する Turing Test を提案した。1948年にTuringはチェスのプログラムを開発し1950年に完了して、Ferranti Mark1の上で実行出来るようにした。大学時代の友人と対戦させたがFerranti Mark1では能力的に限界を超えていたのでチェスボードも使ってサポートし、ー手30分ずつかけて対戦させた。友人には負けたがその夫人には勝ったと言はれている。
1952 年に Turing 自宅の盗難事件の捜査がきっかけで Turing は当時には違法とされていた同性愛者であることが発覚したためにあらゆる名誉を剥奪されて、失意のうちに自殺した。1954 年 6月7日享年41才、彼の42才の誕生日の16日前であった。
2009年8月にJhon Graham-Cummingの請願により時の英国首相Gordon Brown氏が政府として公式に Turing への取り扱いに対して謝罪し、2013 年にエリザベス女王が死後の恩赦を声明した。2013年6月23日Turingの誕生日にあわせて50ポンド紙幣に彼の肖像が出ることとなった。